aphanisis

日々のメモ

パパが自衛隊員の●●は淋しがり屋さんなの



辛いから過去の記述でもしよう。とはいえ、過去の手触りを確かめたかったり、過去を変えたかったりとかいう魂胆は毛頭ない。むしろ現在を変えるための素材にすることはあるが・・・。



ただ、今回に関しては気を紛らわすため時間を潰すため追憶に頼ろうとしているのである。


追憶の回想は孤独な作業であるように思われる。如何に回想の物語が恋しく幸福であっても結局それは虚構に過ぎず、わたしの感情を刺激した如何なるものも最早存在しない。逆に、如何に回想の物語が辛く不幸であったとしても、結局同じである。今やどうすることもできない。できるのは悔悛と反省のみである。こういう気が沈んだときには現在を変えてくれる何かが過去にあると信じて追憶に耽る。



高校時代、ボクのクラスにもリーダー的女子がいた。彼女はおかっぱ頭でやや突出した前歯が印象的だった。彼女は自分のことを「●●は〜」と名前で呼ぶ女だった。音楽を愛し、服に魅かれていた。体を動かすことが好きで、男友達も少なくないようだった。


ただ、心は歪んでいた。

自己の趣味思想と相容れぬ者は徹底して排外する精神の持ち主だった。もし癪に触るようなら徹底的に攻撃した。現に彼女の仕業で学校を変えた女が数人いた(うち1人との思い出は以前にこのブログで書いた)。



こういう人間なのでクラスメイトからは少々恐れられていた。

だが、どうもボクは彼女に恐れられていたらしい。というのも、彼女の絶対に人に知られたくない秘密をボクが彼女に知っていることを教えてしまったから。




あるときの彼女とのLINE。話題は相手の過去の恋愛物語だった。「●●は相手を慎重に選ぶ人間なんだ」。「彼にOKを出してよいか3日は悩んだよ」。ははあ、君は男のことをよく考察してるんだね?    それから、ボクは何となく「でも、きみ本当は物凄い淋しがり屋なんじゃないかな?    できることなら彼氏に甘え尽くしたいって思ってる人だと思ってたよ」と聞いた。


このボクの言葉に対する彼女の反応は、明らかに困惑だった。たとえ電子メッセージであっても文面から相手が驚愕してるのが理解できた。「なんで」。「なんで知ってるの」。「親友にも言ってないのに」。やがて「そっか、バレちゃったか」と送ってきた。「なんで●●が淋しがり屋だってわかったの?」「いや、なんとなく。話してて」「ふうん」納得してないようだった。


だが、本当に「なんとなく」だった。当時のボクは今より他者の話を深く聴きとる人間だったのだ。だから、他者の語らいのなかから他者の欲望を見出すこともできた。本人が自覚してない「何か」を探ろうという態度で対話に挑んでいた。

でも、この分析家ポジションはとても疲れるし、知りたくないことまで知ってしまうこともしばしばあった。だからボクのいまの対話におけるスタンスは「テキトーに他者の語らいを聞く」になったのである。


後から知ったのだが、彼女の父親は自衛隊員だったため、ほとんど家に父が不在という家庭環境だったらしい。





ああ、これ書いて改めて思ったけど、昔のボクに比べていまの僕は他者の話をテキトーに聞いてるなあ。以前、或る女の子から「○○くん(僕)は分析してくるからなあ」と言われたことがある。違うんだよ。あーたの話を真面目に聴いてるだけなんだよ(一方で男から言われたことはない。無頓着なんだろうな)。

とはいえ、「分析されている」怖さは僕も共感できるかも知らぬ。あまりに真剣に話を聴かれ、的を得た回答をされると心になにかが闖入したきたような感覚になるんだろうよ。だから、基本的にはあまり真剣に話を聞かないようにしてるんだ。無論、例外はあるけど。










もういやだね

 

 

 

あああああ、いやだね。本当に。だめだ。死んでもよいって久しぶりに思っちゃってるよ今の僕は。

なんの取り柄も芸も無いのだ。本当に。頭も形も良くない。いや、それはまだ許せるのだが心が汚い。

 

腐敗、怠惰、怨恨、哀哭…。

 

倒錯的で厄介な異物。死に損なって生まれた罪悪。

 

 

 

バルテュスの絵、クロソウスキーの絵

 

 

 

f:id:s-f-d-dali:20180919120224j:plain

 

 

バルテュスバルテュスといえば、去年メトロポリタン美術館に対して『夢見るテレーザ』の撤去を求める署名が8000近く集まったっつーニュースが報じられた。でも、今日はそういう話じゃない。

 

 

 

 

実はバルテュスの兄はピエール・クロソウスキー

 

f:id:s-f-d-dali:20180919120155j:plain

 

 

これを聞いて「えっ!マジ!」となる人、あるいはバルテュスファンはどれくらいいるのだろう。たぶん、あんまいないんじゃないか。たぶんね。

「誰?」という反応が多いんじゃなかろうか。

 

 

とはいえ、別にそんなの大した話じゃない。

クロソウスキーは思想家、小説家で、特にニーチェの哲学に触れる上で外せない人物なのだが、彼も弟のバルテュスと同じように絵を描く。

 

 

 

バルテュスの絵を、フェリックス・ガタリバルテュスの『街路』を引き合いに、彼の作品が「亀裂の絵」だの「分裂」だの「美的アジャンスマン」だの言ってる(『街路のなかの亀裂』––––『分裂分析的地図作成方法』押収』けど、これはわかる。モティーフの切断、裁断、解体。線と色彩の意味作用のない扱い。

 

 

(以下、バルテュスの絵)

 

f:id:s-f-d-dali:20180919115028j:plain

 

 

f:id:s-f-d-dali:20180919115009j:plain

 

 

f:id:s-f-d-dali:20180919115158j:plain

 

 

 

で、一方のクロソウスキーの絵は「密着」なんだな。

あ、これはガタリの考えじゃなくてボクの考え。だから、テキトーに流してほしい。とらいえ、ガタリは『街路のなかの亀裂』のなかでクロソウスキーの思想を引用してはいるが。

 

クロソウスキーの絵はバルテュスの絵とは対照的にモティーフとモティーフがくっつきあってる。彼の絵は、「艶物」が多いんだけどモティーフの密着か激しい。

 

 

f:id:s-f-d-dali:20180919115522j:plain

 

 

f:id:s-f-d-dali:20180919115535j:plain

 

 

f:id:s-f-d-dali:20180919115553j:plain

 

 

 

(これで終わり。なぜなら、これ以上書けることがないから)

 

 

 

 

 

友人とのトーク 3 : 音楽におけるフェミ、大学の言説、父の言説から新しい言説へ

 

 

 

B : 例えば僕がどちらかといえば右翼なのは、古き良きネトウヨが往々にしてそうであるように、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」を中学の頃ずっと読んでたからで、であれ漫画なわけじゃん。それ自体が80年代のニューアカ的エリート主義への反撃だったわけで、そういう何か噛ませるものがないと、駄目なんだよ。でも今回は写真も封じられちゃってるのが痛い。

むしろそういうニューアカ的エリート主義に対する嫌悪がまだ生き残っていたのかってことの方が衝撃。まだ椎名林檎を消費し続けるのかってことにも通じてる。

 

f:id:s-f-d-dali:20180917215609j:plain

 

A : 椎名林檎ね。音楽とフェミは?って思ったけど、いまやPVも音楽の一部みたいになってるね。それを鑑みてみればK POPとかかなりフェミ的なものあるね

 

f:id:s-f-d-dali:20180917215622j:plain

 

B : そうなんだよね。で、K-POPは「なる」ことに躊躇がないから指示されるわけで、それと韓国人にとっての戦争との距離感みたいなものを考え出すときりがないけど、ようはそういうことで、日本人は「なる」ことができないんだよね。だからMe Tooみたいな大きな何かに丸投げできるシステムがあることは僕は全然ありだと思うんだよね、たとえ痛みを同一化していようと。右翼女子では救えない。それはやっぱりアイロニーに過ぎないから。

だからそういう右翼的フェミニズムポストモダンを考えるってことですね。でもそれらは今ばらばら。

 

 

A : ぼくは大文字の真理(あるいは虚構)に悪いコンプレックスを持たれることが嫌なんだ。でもこれって大学組織だけの問題でもないわけじゃん。学生側の問題でもある。大学の言説において真理は常に知に隠されていることを学生だって知っているはずなのに

エディプス王は「自分がああなること」をどことなく知りつつ運命を受け入れたんじゃないかってラカンは読み解いてるけど、どうなのかな。日本がどうなるかわからないけれど、なんかそうなったとき「こうなりたかったんだろうな」ってボクは思っちゃうかも

あなたとの違いとしては、僕は解決策をまだ知らないところ

あ、保身のために言うけれど、性暴力には反対だよ。あと何でもありの性行為にもね。愛は倒錯的だし、愛の定理に反するかもしれないけど、いまはモラル必要だと信じてる

 

f:id:s-f-d-dali:20180917215642p:plain

 

B : ああ、だから弱者の話を親身になって聞いてみるっていうのが90年代だから、ようは女性の愚痴を聞きながら、そこに父の何かを見出したりしちゃ駄目だってことで、だからむしろ苦しむのは女性たちで、苦しみの末想像だにしていなかった何かが生まれるかもしれない。それを無責任に待つ。そして新たな聞き方を創造し、それに伴走する。

 

 

A : すみません。言い方が悪かった。僕もあなたが言う90年代的態度は否定の立場なんだ。高2のときの恋人と別れるまではその態度だったんだけど、良くないなって思ったんだ。「優しさ」は被害者の力を弱めると思うし、現代の悪しきPCの根源でもある。従って、僕が言うモラルはそういう「優しさ」じゃないんだ。暖かさもあるけど、痛みも苦しみもある。誰かが負けて傷つくのが政治だし、モラルはそうあるべきだと思う。モラルは人を傷つけるし、モラルは暴力を伴う。これはだから、あなたが最初の方に述べたコミュニケーションの取り方に似てる。まさにジジェク的な暴力。だから、僕とあなたは全く背中を向けあってるわけではないと思う

 

 

B : ずっとそうだよ

 

 

f:id:s-f-d-dali:20180917215814j:plain

 

 

 

〈あなた〉へ

                             

 

               〈あなた〉へ

 

 

 

ここにあるすべての言葉、写真、映像、音楽は、〈あなた〉に贈られている。

 

 


Erwin Schulhoff: Sonata per violino solo (1927)

                       ( 飽きるまで)

 

 

                                             Ⅰ

〈あなた〉とは言うまでもなく〈あなた〉のことです。いま、この転換子は、〈ブログ読者全員〉〈仮想の誰か〉〈無意味〉などを意味してはいない。〈あなた〉とは、僕が知っている個人であり、僕を知っている個人。大文字の他者ではなく、小文字の他者。漠然とした〈誰か〉ではなく、明白な〈あなた〉。

 

 

                                     Ⅱ

序文の再読。完了後、Ⅲへ。

 

 

                                     Ⅲ 

                                          海。

脳内の視覚記憶の貯蔵庫から過ぎ去った時間の映像が煌びやかに溢れ出す。偶さか〈あなた〉の映像も見ます。

内灘で蒼黒い波に手を浸したとき、太平洋に小さな両手をむける〈あなた〉の映像を脳内網膜でみた。

あのとき〈あなた〉は微笑んでたっけ。

 

f:id:s-f-d-dali:20180913022958j:plain

 

 

                                     

草野心平の海の詩を紹介したとき、「あんまりにもきれいなんでドキドキしてきた」と話してくれた。いまあの詩を再読しても〈あなた〉が「ドキドキ」するかはわからない。それでも、あれは僕にとって思い出の詩です。

この草野の詩にも〈あなた〉は「ドキドキ」するだろうか。

 

f:id:s-f-d-dali:20180913023141j:plain

 

 

                                     

 

                         冬     微     そ     稲     白

                                  笑     が     田     銀

                         な     む     な     に     の

                         つ              り     悶         

                         か     春      に     ゆ     

                         し     夏              る  

                         き     秋                                        

                                  

                                            

 

                                     

忌まわしい太陽の季節が古代のように枯れて土と大気に還ったころ、僕たちは海へ行く。

白い波折りに〈あなた〉はまた両手をむけて微笑むでしょうか。

あるいは、〈彼〉と僕と3人でヒステリー者みたいにけたたましく笑うでしょうか。

 

 

                                     

今日も今日とて僕は優しい夢を見ることができないと思う。だから、せめて〈あなた〉には優しい夢を見てもらいたい –––– ところで夢と海は似ている気がしてきた –––– 。

〈あなた〉が今夜、月の影も通さないほど深い場所まで沈むことができるよう祈っている。

 

 

 

 

侮りがたい詩

 

 

詩人とお話をさせていただいて何となく思ってしまったんだが、おそらく、美術は詩に勝てないだろう。演劇や映画も勝てないかもしれないがしかし、美術は決定的に勝つことができないだろう。

 

詩はあまりに強大すぎる。無責任に撹乱し、反射し、溶解したり伸縮したりする。

 

僕が語っているのは、詩と空間の話。

 

絵画は紙から離れることができないし、彫刻は床や天井や壁から離れることができないではないか。でも、詩において空間は美術とは違い枷にならない。なんなら枷から解放ができる(それは僕たちの手によっての場合もありうる)。

 

 

モノを描く絵画は特に弱い。問題はモノとモノの間に或る亀裂を生むことであって、モノを生むことではない。だがより重要なのは、美術作品は持続する空間上でしか生きることができない点である。それはあらゆる場面において。

 

 

描かれた絵は撹乱、反射、溶解、伸縮などのあらゆる運動が制限されている。また、作品そのものが固有のモノに依拠していなければ生きることができない。繰り返すがこれが枷である。そして詩はこの枷を問題としない。

 

 

究極の問題としては、モノとモノの間の亀裂を生む作業こそが詩の本質なのだが、この詩の本質的な構造が、すでにあらゆる場所に存在している事実。これが1番の怪物だ。

 

 

(ただ、ひとつだけ秘密を明かすなら音楽は強い可能性があると思う。)

 

 

余談だけれど、精神分析も詩に勝つことができないだろう。詩人たちは圧倒的に知っている。フロイトよりも意識について知っている。実のところ無意識など、たぶん問題じゃないんだろう。詩人たちはそれを知っている。それは精神病者たちが知っているということでもある。換言すれば、分析家は精神病者に勝てないのである。

 

 

 

2回目

ここ最近ぼくが綴っているのは、エクリチュールについて。

模索しなくちゃならんのです。

 

(あの詩人だって苦しんでいた。)

 

零度ニ到達セヨ。バルトだって混乱してるんだ。

どのルールに縛られるか選択。僕だって混乱してるんだ。

 

でも埋没しないとなあ。

とりあえず色々書いてみるよ。

前回のはその1回目。今回が2回目。次回は3回目になるのかな。