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日々のメモ

別の名

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ひとは 私を抱きながら

呼んだ

私の名ではない 別の 知らない人の名を

 

知らない人の名に答えながら 私は

遠いはるかな村を思っていた

そこには まだ生れないまえの私がいて

杏の花を見上げていた

 

ひとは いっそう強く私を抱きながら

また 知らない人の名を呼んだ

 

知らない人の名に –––– はい –––– と答えながら 私は 

遠いはるかな村をさまよい

少年のひとみや

若者の胸や

かなしいくちづけや

生れたばかりの私を洗ってくれた

父の手を思っていた

 

ひとの呼ぶ 知らない人の名に

私は素直に答えつづけている

 

私たちは めぐり会わないまえから

会っていたのだろう

別のなにかの姿をかりて ––––

 

 

 

私たちは 愛しあうまえから

愛しあっていたのだろう

別の誰かの姿に託して ––––

 

ひとは 呼んでいる

会わないまえの私も 抱きよせるようにして

私は答えている

 

会わないまえの遠い時間の中をめぐりながら 

 

 

高田敏子 –––– 『別の名』 

 

あたたかい女の手

これまでに何度葬式に参列しただろう。そんなに多くはないはずである。

祖父、叔母、知人、知人の家族・・・。

たぶん5回程度だと思う。


忘れられない葬式がある。父の同僚の母君の葬式である。

およそ一二ヶ月前にはボクの祖父が亡くなっていた。だから、あの頃家族は惨憺としていた記憶がある。父も母も哀しげだった気がする。

ボクかい?ボクはわからなかったよ。なんだ「死ぬ」って。いまだってわかんねーよ。


同僚の母君の葬式のとき、ボクは故人の孫娘(父の同僚の娘)につきっきりだった記憶がある。

とても美しい女性だった。色白で、喪服に色を感じたのは初めての体験だった。



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火葬場に向かう車中、ボクは女性の手をずっと握っていた。

遺影を右手で抱え、声を殺して泣いていた。女性の左手はあたたかかった。喪服につけた涙の点が哀しかった。





・・・それから暫くして、父が知り合いの比叡山の僧侶に電話していたときのことである。ボクは父の話を何気なく聞いていた。あの女性の話をしている。

「その女の子は心を少し病んでしまっているのです。言い方は悪いですが、その、昔交際していた男に遊ばれて、まあ、玩具にされてしまったのです」。







今日我々は「独断と偏見」を大切にしなければならない

 

他者様のブログに惹かれる言葉が載っていた。発言主はジジェク

 

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的にdogmatically 」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

 

んー、ほんとだよ。誠実に批判を甘んじる=他者の声を認める最もたる態度は、「独断的に」自分の立場を主張することだよ。

 

「独断と偏見」が嫌われる理由って「他者の意見を大切にしなくてはいけない」的な態度が働いてるからじゃない?なんか日本では特に疎まれてる気がするんだよなあ。「独断と偏見」を厭う態度は、「他者を傷つけてはいけない」、「他者に優しくしなければならない」、「他者との衝突は悪だ」っちゅー最近ありがちなPCに逆らうからなんじゃないかな。

 

このPC的態度、わたくし自身も持っていたことが一時期あった(高校1年性くらいのとき)。でも、この態度にはとんでもない傲慢さがあるのが理解いただけると思う(前提とされている態度、即ち「私は他者に優しくできる」)」。

問題はまだある。それは「自分の行動」がとれなくなる問題である。他者の言葉に敏感になりすぎて、客観性だとか他者に共感されうる妥当性ばかり大切にしていると、一切の「自分の行動」が取りづらくなる。なにより恐ろしい可能性は、この態度は人を闘争や論争から回避させるかもしれない。レヴィナスの言うとおり、戦争があること自体ひとつの平和なのである。他者と他者の関係が失われたとき、一切の応答は途絶え、私も他者も死ぬ。

 

「独断と偏見」を恐れてはいけない。「独断と偏見」は今日を生きていく上でとるべき態度のひとつである。

狂おしいほどの清澄

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ああ、僕はいまこの風景を前に、三木稔箏曲を聴きながら煙草を吸っているのだが、なんという気持ちだろう。この懐かしき、狂おしいほどの清澄。

 

 


Miki Rhapsody for Koto.wmv

 

まったく信じられる人間も、頼れる人間もいなくなった2年前の春。ボクは毎日学校から駅までの下校道を徒歩で過ごした。駅までの30分。いつも聴いていたのがこの曲なのである。

いま、あの頃の奇妙に伸びやかで健やかな気持ちを思い出してしまった。強烈な孤独と孤独への愛着。狂おしいほどの清澄。あの感覚はいまでもこうして帰ってくるのか。生きているのか。ボクはボクなのか。

 

 

『日本狂詩曲』の名盤 –––– その5 (最終回)

山田一雄 / 新星日本交響楽団 – 1980

 

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おそらく、「この曲といえばこの演奏」的存在。1980年の山田一雄(1912〜1991)による伝説ライヴ録音。Amazonや他者様のブログなどのレビューを見ても、多くの方々がこの演奏をイチオシしているようである。私は「果たしてこの作品の演奏はこれでいいのか?」感をどこかで持ってしまう。伊福部が目指していた作品の形があったはずだが、どことなく山田一雄のこの演奏は外れている気がする。だが、それでも私はこの演奏がやはり好きである。指揮者・演奏者の独断を否定することは、音楽の面白さと価値の大事な何かを否定することでもあると考える。それに、誰が聴いたってこれは名演だ。

第1楽章のテンポは、他と比べて極めて速い。岩城が7分台、高関・広上が8分台なのに対し、ヤマカズは6分台で終わっている。この演奏は2楽章がやばいのだが、既に一種異様の雰囲気が滲み出ている。中間部の弦楽のレガートの切れるような高音と、深淵から響いてきたような低弦の音が恐ろしささえ感じさせる。改めて聴くと、かなり奇怪な〈夜想曲 nocturne〉である。第2楽章冒頭、シンバルとスネアが狂ったように音を立てる。シンバルは銅鑼のようだ。伊福部は作曲にあたって札幌の祭りを取材したらしいが、これ(ヤマカズの演奏)は絶対に日本の祭りではない。異国の情熱さを感じる。もしかしたらこの演奏は国籍に囚われない、他文化にも通じる祭りの熱気を結果として外出させることに成功しているかも知れない。ラスト付近はもう金管と一部の打楽器しかほぼ聴こえなくなる。本作一の爆演。おそらく現場は相当熱気に包まれたに違いない。観客の「ブラヴォー」を聞けば容易に想像できる。

録音は決して悪くない。ライヴの臨場感がしっかり伝わってくる。ヤマカズの(跳んでるのか床を蹴ってるのかわからないが)足音や唸り声もちゃんと録音されている。

 

演奏 ★★★★

録音 ★★★★

総合 ★★★★

 

伊福部昭交響作品集

伊福部昭交響作品集

 

 

伊福部昭 作品集

伊福部昭 作品集

 

 

YouTubeに第2楽章のみアップされている。

 

 

山田一雄 / 新星日本交響楽団 – 1990

 

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おそらく前述の1980年録音と比べて、全く知られていない録音。演奏が行われた1990年は、山田一雄逝去の前年である。知られていないが、この演奏こそ「山田一雄の『日本狂詩曲』」の極地であり、「『日本狂詩曲』のひとつの完成形」であると私は強く思っている。白眉の演奏。

第1楽章は道化のよな雰囲気である。不気味な楽しさと惨憺な縹渺が混ざったような。全体の長さは7分台になったものの、決して遅い方ではない。ピアノの音が鮮明。やはり中間部の弦楽と木管の重奏の厚みが凄い。不覚にも鳥肌が立つ。第2楽章は冒頭のティンパニタムタムだろうか、打楽器の重奏がシンコペティックな構成に編曲されており面白い。全体を通してテンポの緩急と音の強弱にヤマカズ独特の味付けがなされている。ラストの急激なアッチェレランド直後のリタルダントの工夫に唖然とする。酔っ払ったような金管と力士のような打楽器、おどけた木管に弦楽。ここまでやるか、ヤマカズ。

録音も悪くない。最高のアルバム。

 

演奏 ★★★★★

録音 ★★★★

総合 ★★★★半

 

残念ながら、収録されている『山田一雄の芸術』は、現在は廃盤。調べた限りでは販売やレンタルはされていない。

しかし、大変奇特な方がYouTubeに最近あげられた。既にカップリングされている『ラウダ・コンチェルタータ』もあげられていたのだが、大変有難い。余談だが、この『ラウダ・コンチェルタータ』も最高峰の演奏だ。

 

 

山田一雄 / 東京都交響楽団 – 1962

 

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おそらく最古の録音。一説には後述する若杉弘 / 読売日本交響楽団ともあるが、私はこのヤマカズ版を最古としておく。

第1楽章は、3つのヤマカズ指揮の録音のなかでは最もゆったりしている。のちの2つに比べるとどうしてもまだ未熟に聴こえる。第2楽章はすこぶる楽しい。この演奏ではヤマカズが趣向を凝らしてクラベスが韓国の楽器である拍板、ウッドブロックはインドネシアの楽器のラリが使われている。書き忘れたのだが、伊福部はクラベスor拍板、ウッドブロックorラリ、カスタネットor繞跋と指示している(そしてつくづく思うのだが、ヤマカズは1980と1990の2つの演奏でも、この3つか、あるいはいくつかを採用しているのではないだろうか)。この演奏では1980年では完全にどっかへ行ってしまう木管やハープ、ピアノ、小打楽器の音がよく聴こえる。

録音は流石に古いものの、最悪ではない。

 

演奏 ★★★半

録音 ★★半

総合 ★★★

 

 

 

ニコニコにあり。但しLP版。

 

 

若杉弘 / 読売日本交響楽団 – 1967

 

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ご覧の通り、これまで指揮者のなかで、若杉弘(1935〜2009)は最も正統派の「いい男」である。この方はお年を召されてもハンサムだった。この録音は私の最も好きな録音。伊福部は後に大著『管弦楽法』を記すが、彼のオーケストレーションは大変優れていたと思う。土俗的な旋律や、時代への反骨精神が彼の大きな魅力とされている(もちろん事実である)が、その管弦楽作品の構造と設計は天才的だったと思う。吉松隆は『管弦楽法』の愛読者である上に、「『管弦楽法』を読まない作曲家など作曲家ではない」とまで言い切っている。個人的に驚いたのは、あの柴田南雄でさえ「巧妙」と語っている事実だ。端的に録音についていえば、本作の構造の複雑さが最も理解できる録音である。

第1楽章、録音のためなのかヴィオラのピッチが微妙に低いのが気になるが、とても丁寧な演奏。ハープとピアノの掛け合いがよく聴こえる。木管の淋しげな雰囲気もよく出ている。第2楽章はやや遅めのテンポ。Tutti後の打楽器重奏を終えてからのトランペット、ハープ、木管の導入部がとても素晴らしい。箱を開けたら色とりどりの仕掛けが飛び出てきたような印象。ラスト近くの個人的に最も好きな部分の演奏も最高。金管のE4 D4 B3 A3 B3 D4 E4 D4 E4 ・・・が鮮明に聴こえる。再び金管が同じ旋律を始めたところでピアノが導入するのだが、ここからの完成度が凄い。小節でいうとラストから遡って34小節目から。クライマックスの木管の演奏は『鬢多々良』のラストのよう。

録音は最悪ではないものの、やはり古いために決して良くはない。第2楽章終了後、最後の数小節がゴーストのように残っている。しかし、長らくお蔵入りになっていたこの素晴らしい録音が日の目をみたことは有難いことである(若杉氏は『リトミカ ・オスティナータ』でも驚異的な仕事をされているが、『日本狂詩曲』でも素晴らしい仕事をしてくださった)。紛れもなく名盤であろう。

 

演奏 ★★★★★

録音 ★★★半

総合 ★★★★1/4

 

 

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伊福部昭+有馬礼子

伊福部昭+有馬礼子

 

 

 

 

 

 

 

『日本狂詩曲』の名盤 ––––– その4

 

沼尻竜典 / 東京都交響楽団

 

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片山杜秀編集の「日本作曲家選輯」シリーズの記念すべき第一弾に収録されている。邦人作曲家たちの世界発信の力に多分になりうるであろうこの企画を遂行したナクソスには感謝します。沼尻竜典氏(1964〜)は恐らくこれしか伊福部を振っていない。

第1楽章のヴィオラがとてもよい。風狂な雰囲気が満載である。ヴィオラ木管、打楽器、ピアノの重奏も丁寧な印象。しかし、第2楽章の掠れた感は否めない。冒頭、タンブリンの出だしの間違いが気になる。本来ならトランペットソロと重なる形で、始まるはずなのに、ソロが終わっての次の小節からはじまっている(余談だが「日本作曲家選輯」シリーズのヤブロンスキー指揮による『シンフォニア・タプカーラ』の第2楽章にもティンパニの抜けがある)。丁寧な演奏、準音楽性を目指した態度は汲めるのだが、少々打楽器がスマートでひ弱な点はいただけなかった。第1楽章は素晴らしいのだが。

 

演奏 ★★半

録音 ★★★★

総合 ★★★1/4

 

 

日本管弦楽名曲集

日本管弦楽名曲集

 

 この録音もYouTubeにあり。

 

 

広上淳一 / 日本フィルハーモニー交響楽団

 

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伊福部昭の芸術」シリーズの記念すべき第一弾は、広上淳一氏(1958〜)と日本フィルハーモニー交響楽団による管弦楽作品三作(『日本狂詩曲』、『交響譚詩』、『土俗的三連画』)。私が『日本狂詩曲』にハマるきっかけとなった演奏である。名盤として推薦できると思う。

第1楽章のヴィオラは岩城指揮や沼尻指揮の盤と比べるとややあっさり気味。ただ、ピアノ、打楽器の音がよく聴こえる。息も合っていて、とても安心して聴くことができる。弦楽のレガートも丁度良く、低弦の妖しさも抜群だ。第2楽章は割と速め。そしてなかなかの爆演系の仕上がりである。この演奏のよいところは過激な表現なのに、しっかりピアノや小さめの打楽器の音が聴こえてくるところだと私は考えている。それでいて粗さを感じさせないのは指揮者とオケの力量に他ならない。ラストに近い、私が最も好きな部分も大変素晴らしい。土臭さが欠けるように思われるかもしれないが、それでも名盤として薦められてよいのではないだろうか。

録音は文句なし。「日本作曲家選輯」シリーズといい、「伊福部昭の芸術」シリーズといい、歴史に埋もれてしまう危機のある名作、作品たちをよい録音で残すことの意義は言うまでもなく大切である。聴く側の私たちは最大限の有難さを関係者各位に抱くところであります。本当にありがとうございます。

 

演奏 ★★★★

録音 ★★★★★

総合 ★★★★半

 

譚 ― 伊福部昭の芸術1 初期管弦楽

譚 ― 伊福部昭の芸術1 初期管弦楽

 

 尚、この録音もYouTubeにあり。

 

 

本名徹次 / 日本フィルハーモニー交響楽団

 

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本名徹次氏(1957〜)の伊福部昭を私は好まない。伊福部作品をたくさん振ってくださっており、その点への感謝は尽きないのだが、演奏には首を傾げてしまう。従ってあまり聴く気がおきない。おそらくこの方の伊福部を聴く感覚的な資格が私には無いのだと思う。カップリングされている『フィリピンに贈る祝典序曲』と『SF交響ファンタジー第1番』は、貴重さと演奏の良さから推薦できるのだが、他の作品は粗さ、平坦さ、アンサンブルの弱さが気にかかる。

第1楽章はアンサンブルのズレが気になる。ヴィオラは特に艶やかさや妖しさを感じさせることもなく終わってしまう。第2楽章の方は熱はあるものの、なにか平坦な印象を持ってしまう。とはいえ、最後のアッチェレランドの畳み掛けは極めて情熱的である。

録音の質はライヴのためかあまり良くない。おそらく録音の質が評価を落としているところは多分にある。残念。

 

演奏 ★★

録音 ★★

総合 ★★半

 

伊福部昭の芸術(8)特別篇 卒寿を祝うバースデイ・コンサート 完全ライヴ

伊福部昭の芸術(8)特別篇 卒寿を祝うバースデイ・コンサート 完全ライヴ

 

 

 

 

(次回に続く)

 

 

『日本狂詩曲』の名盤 –––– その3

やっとこせ、ようやく『日本狂詩曲』の録音レビューを始めたいと思うが、評価にあたっての観点、いくつかの備考を始めに記述しておく。 


 ・順番は指揮者のアイウエオ順である。

 ・評価は★で示し、5つを上限とする。

 ・①演奏、②録音、③総合評価(①と②から計算)が観点。


なお、評価の際に自らの感覚と思考を信じない態度など、つまり独断と偏見なきレビューなどは糞だと考えるので、独断と偏見を恐れず評価する。 

 


 ○石丸寛 / 新星日本交響楽団 – 1993年(録音年) 


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石丸寛(1992〜1998)といえば屈強な面相が印象深い指揮者・作曲家ではなかろうか –––– 私はこの渋い顔は好きである ––––。オケの方は『日本狂詩曲』の常連、新星日本交響楽団である。

まずひとことで感想を述べさせていただけるのでれば、全体的に「きちん」とした演奏に仕上げている。

第1楽章のテンポはやや速めか。平凡な演奏ではあるが、ヴィオラ独奏の妖艶さは損なわれていない。打楽器もひとつひとつがしっかり聴こえてくる。ただ、後半が軽いという印象をもつ。第2楽章も比較的平凡な演奏ではあるが、中間部のピアノがとても明瞭に聴こえる。ピアノやハープは特に打楽器に掻き消されやすい楽器なので、ピアノがしっかり聴こえる点は嬉しい。最後の最後でアッチェレランドを仕込んであるが、アンサンブルは崩壊することなく揃っている。これらの意味において、全体的に「きちん」としていると表現した。 とても惜しいのが録音の状態がいまいちな点である。終始高音のノイズがはいっており、演奏中ところどころ気になってしまう。  


演奏 ★★★ 
録音 ★★ 
総合 ★★半  

収録アルバムは廃盤だが、奇特な方がYouTubeに動画を上げている。

 

井上道義 / 大阪フィルハーモニー交響楽団 – 不明

井上道義 / 新日本フィルハーモニー交響楽団 –2018)

 

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一応設けたものの、私は第2楽章しか聴けていない。ニコニコ動画にアップされていたのである。

テンポが馬鹿みたいに遅い。とても72歳に見えないミッキー(1946〜)は伊福部作品をよく振るのだが、伊福部に「速すぎる」と注意されたことがあるらしい。また、この指揮者は割と楽譜を改変する方で、ピアノが木琴になっていた。迫力は凄く、ねっとりというよりずっしりとした印象。日本の祭りでは絶対にない。

ところで、今月の5日に井上道義 / 新日本フィルハーモニー交響楽団の『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲(Vn協奏曲第1番)』と『日本狂詩曲』の演奏を聴いてきたのだが、『日本狂詩曲』では弦楽と木管、ハープ、ピアノの仕事がよく知れたので、この作品は生で見るとなかなか面白い。「夜想曲」はしっかり仕上げられており、ヴィオラとミッキーの掛け合いのようなやりとりがとても素敵だった。「祭」は指揮者も演奏者も客もほぼ全員が乱痴気大騒ぎで、ところどころ音が聴こえなくなる事態に。会場の雰囲気は最高だった。

 

大阪フィルハーモニー交響楽団

演奏 ★★★

録音 ★

総合 ★★

 

新日本フィルハーモニー交響楽団

演奏 ★★★

雰囲気 ★★★★

総合 ★★★半

 


岩城宏之 / 東京都交響楽団 – 1990年

 

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岩城宏之(1932〜2006)は、巨匠と呼び声高いだけあって素晴らしい演奏をしてくれている。間違いなく名盤に数えられる。 
第1楽章の艶やかなヴィオラに妙な汗を流してしまう。テンポは悠々とゆったり。背景で演奏される弦楽器の高音レガートの静かな迫力はおそらくこの録音・演奏が最高である。妖艶さがたっぷり感じられる名演だ。第2楽章も濃厚な仕上がり。冒頭から「祭感」が溢れ出ており大変楽しい。トランペットソロも綺麗に演奏されている。「祭感」が強いのは太鼓の縁を叩いようなウッドブロックの音が鮮明なためか。最後から48小節遡ったところからが『日本狂詩曲』のなかで個人的に最も好きな部分なのだが、残念ながらここから金管のミスが少しながらも続く。とはいえ、ラストへの盛り上がりと全体の雰囲気は損なわれていない。なんともはや、見事。 

 

演奏 ★★★★半
録音 ★★★★
総合 ★★★★1/4
 

伊福部昭の管絃楽 Orchestral works by Akira Ifukube

伊福部昭の管絃楽 Orchestral works by Akira Ifukube

 

 ただし、この録音もYouTubeにある。


 
 ○小泉和裕 / 新交響楽団 – 1994


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数ある日本狂詩曲の録音・演奏のなかでも、なかなかの爆演。小泉和裕氏(1949〜)唯一の伊福部作品ではないだろうか。
第1楽章のヴィオラは咽び泣くような音色。このように表現するならテンポは遅い方が個人的には好き。全体を通してあっさり気味。しかしながら、とても全体はしんみりとしており丁寧に演奏しようとしている努力がよく伝わってくる。第2楽章の冒頭、しばし二拍子の旋律あって三拍子に変わってからのTuttiが凄い。なるほど、これを狙っての第1楽章の静けさだったのであろうか。風景がガラリとかわって一気に情熱的な演奏になる。ただ、あまりにも音量の変化が大きすぎる –––– これは録音のせいでもあるだろうが ––––。また、ミスが目立つ。 
録音は決して良いとは言えないように思える。『日本狂詩曲』だけでなく、カップリングされている『交響譚詩』、『日本組曲』などもどこかぼやけた音になっている。『交響譚詩』や『日本狂詩曲』の第1楽章のような情感に迫る作品は滲んだ音響のほうが良いように思うのだが、『日本狂詩曲』の第2楽章はパキッとした演奏の方が個人的には好き。  
 
演奏 ★★ 
録音 ★★ 
総合 ★★  

 

伊福部昭:傘寿記念シリーズ

伊福部昭:傘寿記念シリーズ

 
 
こちらもYouTubeにあり。

 
 
○高関健 / 札幌交響楽団 – 2014年

 

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私は高関健氏(1955〜)の指揮がとても好きである。以前、高関健 / 東京藝術大学フィルによるショスタコーヴィチ交響曲第8番の演奏を聴きに行ったが、名演であった。『日本狂詩曲』でも楽しい演奏を聴かせてくれている。 
第1楽章のテンポはどんな録音・演奏よりも遅く、ヴィオラ古楽器のような表現は見事。音量の調節もヴィオラと他楽器の息が合っており、完成されて。高関氏はスコアの解釈と曲の味付けの匙加減がとても絶妙である。ラストのヴァイオリンソロ、ハープソロが官能的。第2楽章は思わず「やられたっ!」と思われるに違いない。新解釈とでもいおうか。とてもゆっくりしている。スコアの指示テンポより全く遅い。ヤマカズ(1980)盤を聴き慣れている方なら違和を感じるかもしれない。だが、これによって音のマッスがすこぶる分厚い。打楽器の旋律も激しく、弦楽、木管もちゃんと聴こえる。クライマックス近く、 G G G Ges G G G Ges・・・の旋律のたびにリタルダントがかかる工夫にストコフスキーのタコ5の演奏を思い出してしまう。『日本狂詩曲』を聴きまくってきた人は特に楽しめる録音である。

録音の質は第2楽章がクリアすぎるところが気になるが、そのほかに問題はない。ライヴ盤だが、拍手や咳の音は処理されている。因みにカップリングされている『音詩 「寒帯林」』も名演である。尚、2014年に高関氏は次のようなツイートをされていた。

 

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演奏 ★★★★
録音 ★★★
総合 ★★★半

 

伊福部昭の芸術10 凛―生誕100周年記念・初期傑作集(仮)

伊福部昭の芸術10 凛―生誕100周年記念・初期傑作集(仮)

 

 


(次回に続く