aphanisis

日々のメモ。なお、記事はすべて真実

本編

 

なかなか書いてみるもんだな、と思って指を動かしていたが、読み返してみたらつまらなくて不機嫌になった。糞が。

 

先の物語はわたしの完全な空想である。男もいないし女もいない。夕刻の住宅街も煙草もない。

 

いや、眠れないのは本当である。

なにもできないのも本当である。

 

恋人と通話しながら眠ったんだが、どうにも寝つけない。冷房を下げてみたり、寝返りをうってみたりしても駄目。イヤフォンの奥から恋人の呻くような声が聞こえてきたのには笑った。応えるように声を出してみたが、なにもない。本当に寝ていたのか。歯軋りも聞こえた。明日から話せなくなるのは淋しい。

 

もっとも、この物語も嘘である。

いや、眠れないのは嘘ではない。

なにもできないのも嘘ではない。

 

屋根へ出ることにするよ。

むかし、ああ空へ飛んでみたいな、月が綺麗で、行ってみたいな、なんて女に言われたことがある。夜の公園の丘で寝そべったときだろうか。いや、そんな体験はない。自分がそう思っただけである。あるいは、人から聞いた話である。

 

 

狂ってるな、と恋人に言われた。

案外、正しいのかも知れない。今になって生々しく感じられてきたよ、と男が呟いた。

風が髪を撫ぜた。どうかね。女が狂ったんじゃないかい、と返したら、男はにっこり微笑んで眼を瞑った。

 

 

 

 

 

眠れぬ夜と思い紛うものがある。

 

微睡んでいたら、なんかぼんやりと頭が冴えてきて、みるみる視界がひらけていく。するとまた、眠くなってくる。体が湯に浸かるように心地よくなっていく。また暫くすると、今度は最前よりもっと明確に意識がはっきりとしていって、五感が尖っていく。

意識と無意識の境界というものがあって、思うに、それは水と似ていて、だが、身体が浮かんだり沈んだりという有得もしない運動を繰り返す。あたりは深い闇に包まれている。だが、遠い方の海面に、ぎらぎら光が照りつけていて、ゆうらゆうら揺蕩うている。

 

––––なに、眠れない夜というものではない。

わたしの友人がそう呟いたことがある。

ここ数日、睡眠につけない夜が続くという。

「それじゃあ、眠れない夜といっていいじゃないの」

女が言った。

男が答えた。

「いや、眠れない夜というのは、ほかの活動ができる。本をめくってみたり、音楽を聴いてみたり、近所を歩くことだってできる。酒を呑んだっていいんだよ。だが」

そう言って、二本指に挟んだ煙草の先っぽをぼんやりと眺めた。

––––なにもできない夜というのがある。

煙草を口に挟んで、浅く煙を吸って、深く吐いた。

「なにもできないんだよ。眠れなかったら、じゃあ他のことをしようという気持ちにもなれるが、そう思うことさえできない。実際やってみたところで、疲労がどっとくる。眠ろうにも眠ることができない。涯のない退屈が、次第に不安を煽ってくる・・・」

不安、と男は繰り返した。

「あの世を考えたりしちゃうんだよ。死ぬことだって。今に大地震がきてみんな潰れちゃうんじゃないか、とか、明日には噴火でもして、みんな燃えちゃうんじゃないか、とか。そのときに自分は生き残れるのかなあ、家族は、恋人は、と。そんな他愛ないことを考える」

地震も噴火も、ちゃんとくるよ」

女はすかさず言って、悪戯っぽく笑った。決まり悪そうな眼を女へ向けた。

金縛りに似ているんだよ、と男は嘆くように小さく言った。

いや、どうも、そうでもないな、と続けて、煙草を道端に捨てた。踵のほうで念入りに潰したから、靴と地面との間から線香花火のような赤い点々が散った。やがて、黒々としたアスファルトの凹凸に、灰は沈んでいった。男は細々とした寂しさを包めたまま、瞳を瞑った。

「永遠でもないのだよ、夜の時間は。朝が来るという不安が常にある。それが、そのまま死への思いを馳せる要因になる」

これはなかなか面白い。眠ることが生きていることで、目覚めが死か。一夜が人生とは、なかなか味なことをいう。

だから、なにもできない時間というのは苦痛でしかない。気を紛らわせることが、なにひとつできやしないのだから、そう思われるのは当然なのかもしれない。

「抱きましょうか、あなたのこと」

女は突然、そう言った。

「よせや、馬鹿にしないで」

男は頷を女へ向けて、遅れて眼をむけた。

女の眼差しは、妙に落ち着いていた。肚に据えているような、深遠な重みを孕んでいた。

途端に、あどけない笑顔を見せて、溜まってるんじゃあないの、と呟いた。

男は聞こえなかったのか、聞こえないふりをしたのか、応えなかった。

 

住宅街は夕刻で、どこからか犬が吠えるのが聞こえた。男と女はどちらも地面をぼんやり眺めながら歩いている。前に進む、という気持ちだけが独り歩きしているようであった。

わたしはなにとなく空を仰ぐと、鉄塔からのびた幾本もの電線に黒い粒がくっついているのを見た。じっと眉を顰め凝視すると、それが無数の烏であることがわかった。途端に、けたたましい聲をあげて一斉に空へと踊った・・・。

ぎらぎらと照る西日へ向かうことはなく、紫色にも似た、重々しい黒雲をめざして鳥たちは飛んだ。

なまあたたかい風がふいた。女が瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

擁護したいという欲望

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詩は描かれることができるのか、と驚かされたものだ。




鑑賞者の驚嘆は両極的だと思う。

一に、作品(家)の激情が理由による衝撃、二に、実は作家は絵具の量や重なりなどに非常な注意を払っていた(ことを知る)という理由による衝撃。

鑑賞者は横から作品を眺めることで––––壁に頬がつくほど横に回る必要などなく、絵具の異様なまでの盛り上がりを目にする。それはアクセントだし、リズムだし、韻でもあるし。



もちろん、それがサイ・トゥオンブリーの絵を単純に平面的と規定してはならない––––従って、彼を単純に落書きだとかグラフィティだとかの先達にしてはならない––––理由の全てではない。また、だからといって立体作品と言うのも間違いだと思う。絵画でも彫刻でもない。それが絵画––––あるいは彫刻––––に観えたからといって、必ずしも「それは美術である」と言えるわけではあるまい。つまり、サイ・トゥオンブリーの作品は既に絵画でも彫刻でも美術でもなく、どちらかといえば、いや、確実に詩であり、しかも、それは印刷された––––紙に書かれた––––状態にある。つまり、作家は詩人であるとともに優れた編集者でもあり、また、装幀家でもある。



色がアクセント、リズムを持つということは、絵画を絵画たらしめる素材として、なにもこの画家・詩人の作品に特有の性格ではないにせよ、問題なのは我われがそのことをありありと知らされる点にあるように思われる。


 

サイ・トゥオンブリーの絵をぽっかりと開いた空間のなかで鑑賞したことはないのだが、馬鹿広くない所で向き合った方が、共鳴しやすい。



また記す。



中西進の『古事記をよむ』

 

 

万葉集を出典とする新元号「令和(れいわ)」の考案者として浮上している国際日本文化研究センター名誉教授の中西進氏が、・・・

 

『「令(うるわ)しく平和」 新元号考案者とされる中西氏が出版社にコメント 18日増刷分出荷へ』   産経ニュース

 

 

はっはーん、知らなかったなあ。中西進が考案者だって囁かれてるなんて

 

ワタクシは先月、親しいひとと共に奈良へ行ったのだが、3月に奈良、そう、いわずとも東大寺修二会である。個人的には薬師寺修二会の方が関心があったのだが、今回は諸事情により東大寺修二会で落ち着いた

 

生まれてこのかた奈良へ訪れたことがなかったので有意義な旅になったのだが、最終日に石上神宮にも参拝した。天理の総本山の奥、碧い樹々に囲まれた趣ある神社だったのだが、旅の前の石上神宮の調査(というと仰々しいが)で、中西進氏の『古事記をよむ 3  「大和の大王たち」』は面白かった

 

というのは、石上の祭神 布瑠神は、周知の通り武甕雷の分身として神武の命を助けた神として書かれているが、中西が注目するのはなぜ物語の舞台が熊野なのか

 

 

 

––––– と書いたところで私用で外出の必要があるため、ここでおしまい

伏せ名の物語 さいごの一文

 

主人公の〈わたし〉は、自らの女物語を眺め(つまり、彼自身と彼のむかしの女たちのことを考え)、最後、つぎのような決着をつける。

 

・・・結局、今日までの個人的な経験を想起してみて––––それからその物語に私見を寄せてみるならば、“ひと”にとっちゃ男より女、父より母ってこと。

 

(了)

 

初恋

 

ワタクシの文を読むのが好きだと言ってくださる奇特な方がおられたので、更新します。こう言うからにはもちろん、更新するのはその方のためであって、序でに言えば奇特なのはその方だけで他のあんたらのことじゃないよ。あんたらはワタクシの拙い文を読むんじゃなくて、もっと別のちゃんとしたものを読んだほうがよい。ワタクシを励ます奇特な方はワタクシ同様なかなかのクズなのだ。ね、

 

 

–––––––– ぼくの初恋はたぶん中学2年のことだろうと思われます。

 

 

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アフロズィティ・ティス・ミル。ミロスのウェヌス

このウェヌスの石膏像こそ、ワタクシの初恋の相手なのである。

 

忘れもしない。秋の美術準備室。同輩の男がこのウェヌスの石膏像をモデルに素描をやっていた(なぜ美術準備室かといえば、我われ男どもは喧しい女を避け、また女に避けられていたためである)。

男はこれまでにも素描を幾度かやっていたけれど、ウェヌスをモデルにしたことはこのときが初めてであったと思う。

 

知らなかった、知らなかった。こんな艶やかな石膏像が、いや女が世界にいたなんて……(当時のワタクシは今以上に無知だったので、いわゆる『ミロヴィ』を知らなかった)。

 

ぬけるような美しきかんばせをもっているわけでもなければ、茶目た愛くるしさがあるわけでもないのに、すっかりワタクシは心を奪われてしまい、生まれて初めて、まああれはいま思えば慕情と呼んで差し支えあるまいなあ。そんなものを覚えたのである。

 

そこで、ボクはなにをしただろうか。

 

男に、3分独りきりにさせてくれ、と申し出て、なんとか美術準備室から出て行ってもらった。もともと強情な男なうえ、このときは特に受験が近かったために中々出て行ってくれなかった気がする。しかし、拙者は白い女に心を奪われていたのでこの男が志望の美術高校に受かろうが落ちようが知るか阿保、ただもう「とっとと出て行けばよいのだこの馬鹿め」と罵って追い出した記憶がある。

 

そうして扉に鍵をかけ、それから窓の暗幕をしっかと閉め、いよいよ誰からの侵入もありえない空間をつくったのである。

 

もう夕刻の美術準備室で、ボクはこのウェヌスを抱擁した。

ひいやりとしていた。彼女の首筋に頬を撫でつけた。生の女の肉体などこの頃は知らなかったが、しかし甘美や甘美。もうこの石膏の女に接吻をしてみたいなどと思うのは摂理、自然な感情であるのは言うまでもない。

 

しかし、接吻と言ったってこの頃のボクは純情少年一号。そんなのどやったらいいのか一向に見当つかなんだので、ただもうおろおろするばかりであった。だが、刻一刻と時間は迫りくるし、扉の外の馬鹿な男といえばいよいよ痺れを切らして扉をバシャリバシャリ叩くし、ええい、ままよ、と唇を押しつけた。硬くもなめらかなその石肌のつめたさ。この口唇の滑ったい感じは人間の唇より勝るのではなかろうか。そこから先はもう雨の接吻。

そしてもちろんここまでやれば、たかが純情少年である。勃起するのは当たり前なので、時間も男も忘れて、やった。

 

 

これはもう、ワタクシの初恋なのである。疑いあるまい?

もし疑われるのであれば、それを証拠に、いまはもうこのウェヌスのことを––––忘れるということはなくとも、愛してはいない。