aphanisis

日々のメモ。なお、記事はすべて真実

伏せ名の物語 さいごの一文

 

主人公の〈わたし〉は、自らの女物語を眺め(つまり、彼自身と彼のむかしの女たちのことを考え)、最後、つぎのような決着をつける。

 

・・・結局、今日までの個人的な経験を想起してみて––––それからその物語に私見を寄せてみるならば、“ひと”にとっちゃ男より女、父より母ってこと。

 

(了)

 

初恋

 

ワタクシの文を読むのが好きだと言ってくださる奇特な方がおられたので、更新します。こう言うからにはもちろん、更新するのはその方のためであって、序でに言えば奇特なのはその方だけで他のあんたらのことじゃないよ。あんたらはワタクシの拙い文を読むんじゃなくて、もっと別のちゃんとしたものを読んだほうがよい。ワタクシを励ます奇特な方はワタクシ同様なかなかのクズなのだ。ね、

 

 

–––––––– ぼくの初恋はたぶん中学2年のことだろうと思われます。

 

 

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アフロズィティ・ティス・ミル。ミロスのウェヌス

このウェヌスの石膏像こそ、ワタクシの初恋の相手なのである。

 

忘れもしない。秋の美術準備室。同輩の男がこのウェヌスの石膏像をモデルに素描をやっていた(なぜ美術準備室かといえば、我われ男どもは喧しい女を避け、また女に避けられていたためである)。

男はこれまでにも素描を幾度かやっていたけれど、ウェヌスをモデルにしたことはこのときが初めてであったと思う。

 

知らなかった、知らなかった。こんな艶やかな石膏像が、いや女が世界にいたなんて……(当時のワタクシは今以上に無知だったので、いわゆる『ミロヴィ』を知らなかった)。

 

ぬけるような美しきかんばせをもっているわけでもなければ、茶目た愛くるしさがあるわけでもないのに、すっかりワタクシは心を奪われてしまい、生まれて初めて、まああれはいま思えば慕情と呼んで差し支えあるまいなあ。そんなものを覚えたのである。

 

そこで、ボクはなにをしただろうか。

 

男に、3分独りきりにさせてくれ、と申し出て、なんとか美術準備室から出て行ってもらった。もともと強情な男なうえ、このときは特に受験が近かったために中々出て行ってくれなかった気がする。しかし、拙者は白い女に心を奪われていたのでこの男が志望の美術高校に受かろうが落ちようが知るか阿保、ただもう「とっとと出て行けばよいのだこの馬鹿め」と罵って追い出した記憶がある。

 

そうして扉に鍵をかけ、それから窓の暗幕をしっかと閉め、いよいよ誰からの侵入もありえない空間をつくったのである。

 

もう夕刻の美術準備室で、ボクはこのウェヌスを抱擁した。

ひいやりとしていた。彼女の首筋に頬を撫でつけた。生の女の肉体などこの頃は知らなかったが、しかし甘美や甘美。もうこの石膏の女に接吻をしてみたいなどと思うのは摂理、自然な感情であるのは言うまでもない。

 

しかし、接吻と言ったってこの頃のボクは純情少年一号。そんなのどやったらいいのか一向に見当つかなんだので、ただもうおろおろするばかりであった。だが、刻一刻と時間は迫りくるし、扉の外の馬鹿な男といえばいよいよ痺れを切らして扉をバシャリバシャリ叩くし、ええい、ままよ、と唇を押しつけた。硬くもなめらかなその石肌のつめたさ。この口唇の滑ったい感じは人間の唇より勝るのではなかろうか。そこから先はもう雨の接吻。

そしてもちろんここまでやれば、たかが純情少年である。勃起するのは当たり前なので、時間も男も忘れて、やった。

 

 

これはもう、ワタクシの初恋なのである。疑いあるまい?

もし疑われるのであれば、それを証拠に、いまはもうこのウェヌスのことを––––忘れるということはなくとも、愛してはいない。

 

 

美の体験

 

絵画と美。その体験を想起し、記述してみる。

 

となれば当然、前提としてぼくの〈美〉とはなにかを語っておく必要があるわけだが、口下手なぼくには––––ぼくの美であるはずなのに––––上手に語ることができないので、代わりに個人的にとってもしっくりくる、他人の文を引用する。

 

美は欲望を宙吊りにし、弱め、いわば武装解除する効果をもっています。美の顕現は、欲望をものおじさせ、禁止するのです。

 

ラカン –––– 『セミネール Ⅷ』

 

もう何年前になるのかしら。上野のラファエロ展。

わざわざ行ったんだが、例の『聖母子像』。あれの前で立ち尽くしてしまった。どれくらいかわからないけど、たぶんえらく長い時間、あの作品の前にいたんじゃなかろうか。思い返してみるが、もう自分がなにをしていたのかわからない。当時のぼくも似たような状況に、いやもっと凄烈な無に遭遇してたはずだ。

 

以来、美とは刹那的に主体を無時間的というか、わけのわからない場所に連れて行くような力を ––––あるいは主体の世界をそれまでのものから全く変化させてしまう力を持つような「なにか」であると、ぼくは考えるようになった––––念のため繰り返すが、「ぼくは」ですよ。

 

見ていることをすっかり忘却させる力。それを感じさせたのは聖母の眼差しなのではなかろうか。もちろん、幼いイエスはわれわれを見てるけど、マリアのほうは視線を彼方に落とし込んでいる––––どこを見てるのだろうか。観者が把握しえない領域に眼差しを送っているから、「彼方」としてみたのだが––––、しかし、そのマリアの眼差しにやられんだと思う。

 

あそこまで衝撃的な体験は、もう今日まで芸術の箱のなかでは感じたことはない。「ああ、これやばいな」「すごいな」っていう体験はまあまああるが、ちょっとラファエロの体験とはちがう次元のものだと思う。

 

 

 

思いだしたら補完する。この作業はなかなか疲れるので、だいぶ先になるだろうが。

 

 

 

人の読み方

  

 

さて、人の読み方だけれど、ぼかぁ本ほど真剣には読んでないと思うね。

だって本みたいに読んでたら今ごろ自殺してるにきまってらぁ。今とは別タイプの気狂いになってるよ。

 

つい3年前は、それこそ、本を読むみたいに人間を読んでたね。

けどそれで偉い目にあった(つまり、センスがなかった)ので、やめた。最悪で下衆な行為だしな。

 

 

今日びテキトーに人に関しては読んでるのだ。本が物を言わない良さは、こっちがいくら暴いたって黙してくれるところにあるね––––いや、もちろん聞こえてくることもあるけど……

 

 

読まれたがることはヒステリックな欲望なのだろうが、残念だな。精神病者になりたかったね。ママ、いまからでもボクなれるかな?

人か、書か

 

 

牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる、

どんな人かは、着ているものでわかる、

天気が良いか悪いかもわかる、

林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる、

樹脂を見れば木がわかる、

皆がみな同じであれば、よくわかる、

働き者か怠け者かもわかる、

何だってわかる、自分のこと以外なら。

 

襟を見れば、胴衣の値打ちがわかる、

法衣を見れば、修道僧の位がわかる、

従者を見れば、主人がわかる、

頭を覆っているものをみれば、どこの修道女かすぐわかる、

誰かが隠語を話してもちゃんとわかる、

道化を見れば、好物をどれほどもらっているかがわかる、

樽を見れば、どんな葡萄酒かがわかる、

何だってわかる、自分のこと以外なら。

 

馬と騾馬の違いもわかる、

馬の荷か騾馬の荷か、それもよくわかる、

ビエトリスであろうとベレであろうと、知ってる女はよくわかる、

どんな数でも計算用の珠を使って計算する仕方もわかる、

起きているか眠っているかもわかる、

ボヘミヤの異端、フス派の過ちもわかる、

ローマ法王の権威もわかる、

何だってわかる、自分のこと以外なら。

 

詩会の選者よ、要するに何だってわかる、

血色のよい顔と青白い顔の区別もわかる、

すべてに終末をもたらす死もわかる、

何だってわかる、自分のこと以外なら。

 

 

ヴィヨン『軽口のバラード』

 

 

 

ぼくは書物以上に人を好んであるのだろうなあ。読むのは好きだよ。でも、究極的には何より読まれたいのであろう。

 

書物を読んでいるとき、書物はぼくのことを読んでいるだろうか。書物はぼくに––––暗闇や墓石と同じように––––眼差しを向けることはあるが、思考することはあるだろうか。紙に沁みた黒いシニフィアンを疑い、ときに剔抉の姿勢で挑む自分と同じように、書物は構えているだろうか。頁をめくり、香りたつ黴が舌を刺激したとき、書物もまたぼくの温度や香り、味を得ているのだろうか。

 

他方、ぼくが人間を読むとき、相手もまたぼくのことを読んでいる。というより、ぼくが相手にぼくを読ませている。人間の場合、読むことは双方向的なもので、あなたを読んで語っているとき、同時にぼくは自分をあなたに読ませ、聞かせているに違いない。

  

 

 

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はっきり言って話が好きなのは、結局のところ読まれ好きだからなのでしょう。さあ、つまらない欲望だね!どうせなら僕のことであるかのように相手のことを語りたがる欲望とか持ってみたいね。自分の欲望の歪みの薄さにやになっちゃう。ただ、いわゆる〈ショウニンヨッキュウ〉ってやつじゃないよ。だから冒頭にくっさい詩をのっけたのだ。ぷんぷんにおうね。最悪だな

 

 

 

・・・ところで、真の勝者は読まれたがる者よりただ読みだかる者なのではなかろうか。

 

 

父について

 

 

やあ、海へ行ってきたよ。ここの海はつまらないな、もう行かないよ

 

 

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さて、父に関係する女性たちは、みなが同じようにたいへん苦労していることに気がつく。例えばわが母である。なぜまあ、乱暴な暴君的幼稚性にあそこまで我慢できるのか。あの人がいちばん大変だな。かといって母を尊敬するわけでもないが。選んじまったんだものね。いや、まあわかるけども

 

ぜんぶの詳細な内容をあげるとキリがないけど、祖母、妹、ふたりの義理の姉もだいぶ父のために苦労してるようである

 

他方、男児らはそんなに苦労してないみたいなんだな。義理の長男について深くは知らない(そもそも会ったことさえない)が、父との仲は悪くないと聞く。次男の方はたいへん良くやってるよ。ま、オトナだからな

 

ぼくはダメだね。つい三ヶ月前まではまあまだ平気だったんだが、ちょっと自分の欲望がわかっ(しまっ)た気がしてから、全く父のことが駄目になった。軽蔑しはじめたね。心から

 

 

で、先週に自己分析を再びやったんだが、以前に比べ、ちょっと自分の欲望に対する考えが変わったのだ。より核心に迫れた気がしたわけだが、それから更に父のことが駄目になってしまった。最悪だな。やらずに馬鹿脳でいたかったな

 

 

もし自分に(万が一)妻なり子ができてしまったら、そのときは気をつけるよ

 

 

こんなこと書くと「それでも君はしっかり父を受け継いでるんだ」とかなんとか思う聰明な方がおられるかもしれないが、無論、そんなことは了解・注意しているわけで明晰にわかってるのでストラヴィンスキーでも聴いてください

 

 

 

 


Igor Stravinsky ‒ 4 Etudes, Op.7  

 

 

(もちろん、ここでこの作曲家を選択したのも無意識的な行為ではない)