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日々のメモ

友人の作品「私」に寄せたテキスト

「私」に寄せて –––– 〈私〉という〈他者〉                                                  


彼女がなにかを語るとき、そこには常に友人の存在の印象がある。過去に見た美しい夜景の話、将来の話、恋愛の話、苦悩の話。感動の物語や人生の物語の背景には、常に学校の友人の存在があるように感じる。従って、彼女にとって学校の友人が掛け替えのない存在であることは、認めなければならない。


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本作は、彼女自身の大きな問題に対する、ひとつの答えの提示であるといえる。いまを去る昨年の秋。彼女は〈私〉について思い悩んでいた。挙句、彼女は、わたしや学校の友人との対話のなかで、〈私〉が〈他者〉によって形成された存在であるということを知ったという。実際、この考えは正しいように思う。これは、また、すべての人間に普遍の絶対である。つまり、〈私〉は大いなる〈他者〉によって形成された存在。〈他者〉の言語や欲望によって形成された存在である事実は、普遍の絶対であること。



〈私〉とは非固形な散乱した存在なのである。〈私〉は外在する。〈私〉は常に〈他者〉のなかにある。あらゆる〈他者〉は事後的に〈私〉となり得る。従って、デカルトの命題は、ある哲学者が言うように次のように直さなくてはならないかも知れない。即ち、「我の考えないところに我在り」。



しかし、もし「〈私〉は常に〈他者〉のなかにある」のならば、同時に「〈私〉のなかには〈他者〉がある」とも言わねばならないのではないか。ともすると、〈私〉のなかには〈他者〉があり、その〈他者〉のなかにはまた〈他者〉がある。さらにその〈他者〉のなかには〈私〉も含まれるかも知れない。つまり、〈私〉という存在は、一種のフラクタル構造を持ち得る。彼女の作品からはそのようなフラクタル構造は見出せないものの、〈私〉が1人の〈他者〉であることを示唆している。

彼女は、〈私〉が非常に不安定な存在であることを自覚しており、不安定な存在であるがゆえに、〈私〉について深く考えてよいものか悩んでいた。だが、良し悪しで語れる話ではないし、〈私〉と〈他者〉の関係を断つことは不可能なことである。それは、仮に〈私〉が死んだとしてもである。だが、ひとつだけ確実に言えることは、本作は非常に作者にとって意義のある主題であったということである。〈私〉を考えることは、アートに携わる者からしても、彼女という人間からしても、意義のある主題であると思う。



彼女の作品の鋭さは、無論、未熟さもあるだろうが、主題を〈私〉という私小説的な雰囲気のあるものに選びながらも、〈他者〉の存在を巻き込んだ次元にまで至らせた点にあると考える。また、彼女は〈私〉が〈他者〉によって形成されていることを自覚しつつも、決して〈他者〉に呑み込まれはしないと、わたしは考えている。むしろ、彼女の方が〈他者〉を呑み込むのではないかと考えている。なぜなら、作品を観れば明らかなように、〈他者〉が彼女(=〈私〉)を包み込むのではなく、彼女が〈他者〉を包むかたちで、作品は完成されているからである。




*ここに掲載するに際して、一部改めた部分がある。このテキストは作者からの依頼で書かれ、作品横に設置された。