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日々のメモ

メモ

私は一点からしか見ることができません。しかし私は、私の実存において、いたるところから眺められているのです。 –––– ラカンセミネールⅪ『眼と眼差しの分裂』

 

私のことを眺めている眼差しは、現実的な眼差しではないこの眼差しは妄想的であり、ラカンの用語を使うなら〈対象aとしての眼差し〉。

 

この眼差しの主は他者。それも〈大文字の他者〉。この他者(繰り返すが大文字の他者)は「主体が存在すると思ったときに誕生する」存在であり、厳密な定義によれば「主体を超越する」存在。神、社会、法など。

 

私自身が他者を創造しているのにも関わらず、その他者は私を統制し支配する。この現象の構造はつまり、「妄想の第三者を介して私は私を苦しめる」というもの。そしてしばしば私は私自身が他者の創造主であることを知らない。

 

 

精神病(と神経症)の幻覚の原因は対象aの氾濫だというが、まさしくコレ。他者からの(対象aとしての)眼差しの氾濫!無論、「他者からの」というのは妄想。

 

この対象aとしての眼差しの理論こそが、ラカンの「私こそが絵画tableauとなる」というあの奇妙な格言の理解に迫る。・・・というのだが、誤認の恐れもあるので慎重に。Adagioに。