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中井久夫 / 『最終講義 分裂病私見』

 

分裂病は、研究者から転じて後、私の医師としての生涯を賭けた対象である。私は医師としての出発点において、実に多くの分裂病患者が病棟に呻吟していることを知った。精神科に転じてから最初に外来助手を勤めた若い女性が幻聴を訴えただけで、ろくすっぽ診察もされずに遠くの病院に入院するように指示されるということがあった。私は一ヶ月後、その病院を訪ねた。若い女性としての魅力がじゅうぶんあったその女性は僅かの期間中に慢性分裂病患者になり果てていた。・・・当時は、分裂病でも目鼻のない混沌とした病気で、デルフォイの神託のような謎だと言われていた。・・・私は、それまでの多少の科学者としての訓練や、生活体験や、文学などの文化的体験を投入して、何とかこれに取り組もうとした。

 

–––– 『最終講義 分裂病私見

 

 

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中井久夫 (1934〜)

 

1997年3月5日、神戸大学医学部第五講堂に於ける中井久夫の講話をベースとした書籍。中井久夫は言わずと知れた統合失調症(旧名 分裂病)研究の第一人者であり、その壮絶で多大な仕事と功績の数々について改めて多くを書き記すことなどしない。なにより僕なぞの人間が氏を評価するなどとはとても畏れ多い!代わりに何人かのスグレタ皆様の評を貼っつけておく。

 

気品。高雅。透徹。この比類のない賢人と同時代を生きられた幸運を慶ぶ。中井久夫先生の思索は、内に閉じ小さく縮こまろうとするわたしの心と身体を、絶えず外に向けて開きつづけてくれた。

 

松浦寿輝(作家・詩人)

 

時には花の香にふくらむ春風のような甘やかな言葉遣いをする、あたたかい叡智と、透徹した明察と、この世の正を求める情熱とを兼ね備えた友人を、一人あなたは書架に持ちたくはないか。名を中井久夫と言う。

 

佐々木中(作家・哲学者)

 

中井の尋常ならざる博識と、難解な思想を見事に翻案してみせる卓抜なセンスに触れる者は、この知性に飲み込まれる恐怖を体験する。だが、彼は同時にそれをケアする能力にも長けていた。読むのを恐れることはない。

 

松本卓也精神科医

 

理論と臨床。思想と行動。知識と知性。洞察と優しさ。ある種の「ねじれ」のもと、ひとりの人間の中で、それらが奇跡的にも両立しうることを示してくれたひとは、中井久夫を措いてほかにない。その文章は、日本語による最もみごとな科学と詩の共鳴混成体であり、一切の体系化をしりぞける「箴言知」として、北極星のごとく瞬いている。

 

斎藤環精神科医

 

どんな隙間にも入ってゆく針金のように強靭でしなやかな思考と、「心の生ぶ毛」ともいわれる繊細な思いやり。生きものとしての私たちに未だ残照のように残っているはたらきを知らされて、どれだけ勇気を得たことか。

 

鷲田清一(哲学者)

 

中井久夫は最も偉大な現代人のひとりと評価されていると見做して差し支えはあるまいが、さらに氏の魅力のひとつを文体と考えるのも差し支えあるまい。端正で明晰、しかも詩的なあの言葉たちは、真摯にひとの心に向き合う人間でしかとても語ることも聴くこともできないであろう代物だと僕は思う。氏の訳された詩が逸品と評されるのも、これと関係しているのは言うまでもない。

 

今、苦悶が総身に覆いかぶさり、

骨の浮いた手が、花を摘んでは握りつぶす、一本 また一本と。

水無瀬の河の涸れ谷に憂いのみ多くして、歌は死に、声は絶え、

居並ぶ岩の列は髪ひややかなる僧のごとく、声を殺して

 たたなわる原野を横ざまに切る。

 

 –––– オディッセアス・エリティス『アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩』 

 

『最終講義』は「最終講義」と題されているものの、内容は殆ど氏のこれまでの仕事と研究を通しての“発見”の紹介のため、初読者にはあつらえ向きの本だと思う。実際、僕自身、初めて読んだ氏の著作がこの『最終講義』だったのだが、氏の活躍と思想のエッセンスを(最もとは言わないが)十二分に得ることができた。

 

 

 

ところで書の冒頭、氏はこんなことを言われている。

 

精神医学は目に見えないもの、語りにくいものを何とか目に見える形にし、ことばで輪郭なりとも描こうとする試みでもあります。

 

これを精神医学と呼ぶひともいれば、哲学とよぶひともいる。

 

哲学は、論理学者が言表に、詩人が言葉に、音楽家が身を置くようなやり方で、語られた言葉や書かれた文字の次元に身を置くのではない。哲学が表現に導こうとするのは、ものそれ自身であり、しかも物が沈黙しているその深みからなのだ。 

 

–––– モーリス・メルロ=ポンティ / 『見えるものと見えないもの』

 

他にもこれを「詩」と言うひともいる(吉増剛造)し、「壺作り」だとか(ラカン)、「分節」だとかいうひともいる(若松英輔)。あるいは「絵」とするひともいる(池大雅)し、「音楽」とよぶ人びとの例など挙げたら切りがない。