aphanisis

日々のメモ。なお、記事はすべて真実

美の体験

 

絵画と美。その体験を想起し、記述してみる。

 

となれば当然、前提としてぼくの〈美〉とはなにかを語っておく必要があるわけだが、口下手なぼくには––––ぼくの美であるはずなのに––––上手に語ることができないので、代わりに個人的にとってもしっくりくる、他人の文を引用する。

 

美は欲望を宙吊りにし、弱め、いわば武装解除する効果をもっています。美の顕現は、欲望をものおじさせ、禁止するのです。

 

ラカン –––– 『セミネール Ⅷ』

 

もう何年前になるのかしら。上野のラファエロ展。

わざわざ行ったんだが、例の『聖母子像』。あれの前で立ち尽くしてしまった。どれくらいかわからないけど、たぶんえらく長い時間、あの作品の前にいたんじゃなかろうか。思い返してみるが、もう自分がなにをしていたのかわからない。当時のぼくも似たような状況に、いやもっと凄烈な無に遭遇してたはずだ。

 

以来、美とは刹那的に主体を無時間的というか、わけのわからない場所に連れて行くような力を ––––あるいは主体の世界をそれまでのものから全く変化させてしまう力を持つような「なにか」であると、ぼくは考えるようになった––––念のため繰り返すが、「ぼくは」ですよ。

 

見ていることをすっかり忘却させる力。それを感じさせたのは聖母の眼差しなのではなかろうか。もちろん、幼いイエスはわれわれを見てるけど、マリアのほうは視線を彼方に落とし込んでいる––––どこを見てるのだろうか。観者が把握しえない領域に眼差しを送っているから、「彼方」としてみたのだが––––、しかし、そのマリアの眼差しにやられんだと思う。

 

あそこまで衝撃的な体験は、もう今日まで芸術の箱のなかでは感じたことはない。「ああ、これやばいな」「すごいな」っていう体験はまあまああるが、ちょっとラファエロの体験とはちがう次元のものだと思う。

 

 

 

思いだしたら補完する。この作業はなかなか疲れるので、だいぶ先になるだろうが。